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山小屋の番人

 思い出に残る山小屋は 数々ある。番人についての思い出も 多くある。南アルプス南部の縦走路鞍部のとある山小屋。老紳士が一人、読書しながら 番人をしていた。太い丸太を2本 向かい合わせにして、燃やし続けるインデアンファイアー。奥さんは亡くなったとの事。静かな人生であった。
 北八ヶ岳のある山小屋。夫婦での小屋番を募集していた。車が徒歩20分のところまで入るので、何かと便利だ。   独身男性が一人で、1シーズン契約で、番人をしているところもある。山小屋の番人には 登山コースの草刈、整備、必要物資の運搬、まき割り、などする仕事は、いくらでもある。体力と相談しながらやればいい。巨木を大のこぎりを挽いて板を作っていた人もいた。小屋の増設を手作りでやろうと言うのだ。私には、とてもその体力・根性はない。
 我が遍歴。日本語教師の次は、山小屋か はたまた温泉旅館の住み込み従業員か? 
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by yamayamakawaumi | 2005-03-09 10:10 | その他

ムービー

 今から41年前、私はアルバイトの 映画技師だった。ドイツ製の35ミリ映写機とともに、高知県の山奥の村を巡回していた。重い重い映写機で、足を踏ん張り 両手で持ち上げるようなものだ。営林署が福利厚生活動の一つとして、やっていたのだ。そのもっと前、私が大阪にいた頃は、町中に映画館がいっぱいあった。A館で上映し終えるとすぐ B館まで、自転車で運ぶ。そうやって いくつかの映画館が同じものを 時間をずらして 上映していた。
 私は小学校で働きはじめた。家庭用8ミリ撮影機を買い、子ども達を写した。特殊学級の子らの 掃除風景など。映写機も買って、一緒に見た。セルロイドフィルムは、燃えやすいので、材質も変化していた。学校では、16ミリ映画が中心であった。8ミリで記録したものは、今となっては、映し出すこともできない。
 ビデオの時代になった。ソニーのベータが消えた。ソニーの8ミリが 人気をはくした。私も8ミリビデオ映写機を買った。ビデオデッキ、タイトラー等の編集用機材、ワイヤレスマイク。教材作り、映画作りに取り組んだ。しかし 8ミリビデオの保存性に 問題があった。長期間の保存に耐えないのだった。子どもの成長を記録しても、20年も経たず、ダメになってしまうのだ。DVDになった今、私は手を引いている。作品を見せる相手が居ないからである。
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by yamayamakawaumi | 2005-02-23 16:05 | その他

農民の知恵

 高知の農家に住み込んだ。労働を積み重ねている人は、コツを見つける。体力の消耗を抑え、合理的に仕事を行う方法。均一に肥料を撒く方法。滑らずに歩く方法。を紹介する。
 例えば4人で 鎌で稲を刈る。5株を刈って置く。もし4人が横一列に並んだ場合、20mの田であれば、20m前進しなければ、立ち上がる(腰を伸ばす)ことはできない。これでは疲れてしまう。もし、5m前進した所で立ち上がり、5m戻るようにすれば、腰を伸ばすことで、体に優しい働き方になる。だから4人は 横一線に並ぶのでなく、5m差をつけた 段々の位置になるように、始めに刈る。それからが 本格スタート。先頭が田の向こう端に到着したら、三人に合図し、全員が5m戻り 隣りの人が刈っていた場所の続きを刈るのである。
 左手で株をつかむのだが、親指と人差し指で、3株持つ。4・5株目は 中指等3本でつかむ。そして寝かせれば、少し交差し、乾燥させるのに都合がいい。
 
 広い田んぼに、顆粒肥料を撒く。右手でたくさんの顆粒を握り、広く均一に撒くのだが、コツがある。右手の形を工夫するのだ。指の間に少し隙間を作って握る。そして 右外側から左方向に振り、指の間から出るようにすると、均一になるのだ。
 コンクリートの畦(あぜ)を歩くとき、泥でぬるぬるし、裸足でも滑りやすい。足の指を立てて歩くと、(スパイクの爪と同じような働きをして)滑らない。
 コツ、知恵は たくさんある。  
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by yamayamakawaumi | 2005-02-05 19:44 | その他

肉体労働賛歌

 大学時代のバイトで高収入は、家庭教師。その次が土方だった。土方の親方は 私に言う。「あんたは(教育で)子どもを育てる。俺はビルや家の基礎を作る。俺の仕事が 高知市に 形として残るんだ。教育は残らないじゃあないか。俺の方がいいなあ。」彼は仕事にプライドを持っていた。  ある時、工事人夫の小便を回収したことがあった。午後3時ごろになって、彼は「もう上がろうか(仕事を終えて帰っていいよ)。」と言った。つらい仕事をさせた時は、時間を切り上げて帰す、という使用者としてのツボを得た人使いである。
 大阪万博で、有利な仕事がありそうだと 大阪に出て、飯場に入った。ツルハシ、スコップを使って汗を流す。私は穴掘りが好きなので、どんどん掘り進む。すると 隣りの人夫が言った。「お前、そんなにガンガン働くなよー。こっちが目立ってしまうじゃあないか。」「力を100%出していたら、年取るまで働けないぞー。」 なるほど、70%の力で充分なんだと気付いた。
 夜は、花札などで金を掛ける。若い親方が入って、エキサイトしないように気を配っている。この親方が用で立った短い間に、掛け金が10倍になっていた。歯止めの利かない連中であった。私はそばで本を読む。寝るのは畳一枚と決まっている。花札の連中が座っていたので、私の寝る場所が 畳のたて一枚に寝られないので、横に寝た。隣の畳の半分と自分の半分を使ったのだ。しばらくして連中も寝ようとした。私の隣の男は、いつものように寝られないので、怒り出した。若い親方がブレーキを掛けた。私は布団にもぐりこんでいたが、ここは起きた方が もめずに済むと判断し、パッととびおき、布団を正し、パッと寝た。何事もなく治まった。
 若い人夫が、「土方仕事なんか 嫌になった。又 バーテンになる。」と 出て行った。別の人が言う。「あいつは ああして出て行ったが、長くは続かないぞ。しばらくしたら又 土方に戻るぞ。」と先を見通すことを言った。私が「そういうもんですかねえ。」と言うと、彼は自信を持って断言した。身に覚えがあるのだろうと思った。

 高知は 米の二期作地帯だ。二回目は 収量も少なく、労働はきつく、割に合わないので、今は昔の話になった。七月にアルバイトで、稲刈り・田植えを手伝った。体が順応しない初日は、バテてしまい、一日五度の食事の四度目が食べられなかった。スイカしか食べる元気がなかった。農民のしぶとさ、我慢強さに 頭が下がった。 
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by yamayamakawaumi | 2005-02-02 21:19 | その他

社会科「郷土の昔」を調べていたら

 江戸時代の「宮山村絵図」が目に付いた。私の町の大字である。農業用水中心、堰のある最上流から村はずれの下流までが、村の範囲だ。用水の流域が村の範囲なのだ。用水を見守る位置に氏神様、村はずれの東南の高台に古墳がある。古代、この地域を開拓した氏族の勢力範囲を示している。この氏族が入植する前から、近くに人が住んでいた。大字小谷。支流の上流部に位置している。小谷のあまり水は、本流に入る。その少し下流部に堰を作り、川を掘り、農業用水としたのだ。この用水の最下流に小谷の飛び地がある。この飛び地は、後から入植した宮山の人が、小谷に 挨拶代として贈呈したものと読み解いた。用水・神社・古墳を手掛りに開拓者たちの足跡を追いかけていくと、古代の姿が浮かび上がってくる。神奈川新聞に連載したが、大阪・長野等どこでも、郷土史を調べる時、水の流れが大きな鍵になることがわかった。稲作農民にとって、水は命であったのだ。
 ヤマトタケルが弟橘姫を犠牲にしてまで、海を渡ったのは、平塚・川崎の勢力に 挟み撃ちにあったからである。埼玉県稲荷山古墳の鉄剣にある文を解釈した。被葬者オワケノオミは、ヤマトタケルの質問に、掛け言葉で答えた 火たきの翁である。という論を展開し、新聞に2週にわたり載せた。
 郷土史・古代史研究は、社会科教師であったればこそだと考えている。
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by yamayamakawaumi | 2005-01-31 17:14 | その他

日本語はいかに成立したか

 日本語は、トルコ・ウイグル・モンゴル・満州・朝鮮語と同じ「膠着語」です。騎馬民族渡来説の言うように 支配氏族はその辺りから来ているのですから、日本語の源流は中央アジア・東アジアにあることは、疑う余地はありません。しかし、日本の言語学者たちは、目の色を変えて 否定するのです。「象牙の塔」なのです。
 和語と漢語があります。漢語は 中国語が移入されたものであることは 明白です。訓読み・和語は、どこから来たのでしょう。具体的に見てみましょう。
 すすぐ・ゆすぐの古代韓国語は、ガシダ。その語幹ガシから、かぜ(風)という日本語が生まれたのです。こごえる意味のゴブダ→こほり→こおり(氷)。口の意味イブが 言うという動詞になった。差し入れる意味のゴジが 久知と表記され、くち(口)という日本語が成立した。
 広げる意味のパルが はる(春)に、昼の意味ナッ、ナヂが なつ(夏)に、子のアギが あき(秋)に、孕む意味のベョが ふゆ(冬)になった。
 端のアと丸タマで、あたま(頭)になった。来るオと行くガで、おが(おがくずのおが)。来たり行ったりという意味で、秋田県男鹿半島・オガチ郡などに残っている。(古代韓国語については、李寧熙女史の説)
 このように 日本語の語源を韓国語に求める見解が発表されると、日本の言語学者は、やっきとなって、否定しにかかる。「古代韓国語は失われた。証明できない。」と言う。
 日本書記に保食神(うけもちのかみ)の死体の各部分から、牛馬・農産物が生えてきた、と言う記述がある。頭頂(ソシマラ)から牛(ソ)馬(マル)が、額(チャ)から粟(チョ)が、眉(マンホ)から蚕(マンホ)が、目(ヌン)から稗(ヌィ)が、腹(ベ・ペ)から稲(ベ・ピョ)が、陰部(ボデ)から麦(ボリ)と小豆(ポト)が生えてきた と書かれている。これらは全て掛け言葉で、古代韓国語から、日本語ができたことを証明している。日本書記には、他にも掛け言葉がある。古代韓国語の視点から検討すれば、歴史学・言語学は 大きく進歩するのだ。 



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by yamayamakawaumi | 2005-01-20 11:13 | その他

日本語教育

 日本語教育のおもしろさは、どこにあるのか。私が感じていることを 少し述べよう。
 日本語では、受身がよく使われる。①動作の受け手について言いたい時・。②複文の主語を主文とそろえる。③動作主がはっきりしない時。④被害感を出したい時。⑤季節の到来を受け止める。などの場合である。    ④の場合だが、「私はズボンを泥で汚された。」と 人間主語で話す。韓国語・中国語・英語は ズボンを主語にする。私は、ポルトガルに行き、勉強してきた。ポルトガルでも、ズボンが主語であった。人間主語で述べるほうが特殊であったのだ。日本語は、自分の目を潜り抜けた、自分の感想・思いを載せた表現が いっぱいあるのだ。ある女性が墓場に来て「〇〇さん、又 来ちゃいました。」とつぶやく。「来ました。」と「来てしまいました。」とは、違うんだよ。と学生に話します。自動詞・他動詞を使い分け、自分の気持ちを示すのです。他動詞は、その後ろに 人間の存在を感じとった表現なのです。「~てある。」という表現は、それをなした人の存在に思い至った表現なのです。
 その他、日本語の特徴はいろいろあり、それを 改めて自覚することができるのは、日本語教師ゆえだ と思うのです。

写真は 揚州の花。ケイカ。日本名「八仙花」 唐招提寺にもある。 
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by yamayamakawaumi | 2005-01-10 17:05 | その他

小学校教師への道

  大学時代を通して 地域子ども会の指導に当たってきた。決定的打は、3年生の冬。   先輩が 山奥2級僻地に赴任していた。1級と言ってもいいほどの不便さだ。バスを降り、真っ暗な山道を、忍者歩行の術を使って、2時間近く。「西谷村」である。「東谷村」も同じく2級僻地。単純明快な命名である。中学3年生は、7人もいた。卒業なので、公民館で 夜通し過ごすのだという。我々も1時間ぐらい参加して、ゲームを教えた。「発電所・変電所」。真ん中に一人入り、周りの全員が手をつなぐ。オニに見つからないように、電気を流す。あとで聞くと、一晩中それをやっていたそうだ。いい思い出になったことだろう。小学生全員で 14人。3年生の男の子。家では 貴重な労働力なのだ。その手は、ひび割れた労働者の手だった。3泊して帰るという時、彼は私に抱きついて放さない。「どこかに針金はないか。しばるんだ。帰らないで。」・・・   卒業式に電報を打った。参加した親達は「その電報は 誰なんだ?」と 驚いた。文章が形式的でなく、少しだけ長かった。先輩が説明し、みなさん 喜んだとのことであった。その地区には、いままで 議会議員以外の人間からの電報は、なかったとのことだった。
 この経験が私を小学校教師にさせた と思っている。
 写真は 中越国境・徳天瀑布  左がベトナム  右が中国 
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by yamayamakawaumi | 2005-01-04 15:32 | その他

軌跡(高校・大学時代)

 高校・社研に属していた。60年安保。大学生に混じり、連日 デモに参加した。部落問題研究・労働問題。レポートを作るのが面白かった。大学では、同和教育研究会に属した。専門の経済学では、農業問題ということで、農村調査で 農民たちの中にとびこんでいった。
 大学生協設立運動の学生側の中心になって活躍した。学部代表の教授たちや大学本部事務官たちと、会議し、飲み会を重ねた。学長の家にも、二度訪問した。四年生の2月、県教育委員会の人事課から、大学に 私と連絡をとりたい という電話があった。電話に出た人は、私がいつも 学生会館に居ることを知っていたのだ。電話が回されてきて、話することができた。高校の社会科教師が必要になったから、こないか、というのだ!裏口採用もいいところだ。そんな話に乗ったら、真面目に採用目差して努力している人たちに申し訳ない。私は、小学校教師を目標にしていた。丁重に断った。次に 経済学の恩師の一人が、「おいお前、大学院を出たら、我が大学に引っ張ってやるぞ。」と言った。これも 小学校教師になりたい ということで断った。   
 神奈川県で教師になり、28歳で結婚式をした。もう一人の経済学の恩師に、横浜まで、奥さんと二人で、出てきて 仲人の席に座ってくれ、と頼んだ。高知から横浜。学部長だった先生は 来てくれた。思えば、自分中心 傲慢なことであった。生協食堂のおばちゃんたちのメッセージをテープで 届けてくれた。ありがたい配慮であった。その後 先生は学長になり、数年後、東京に出てきた折、教え子の呑み助と バーに行き、階段から足を踏み外し転落。帰らぬ人となった。もう一人の恩師が 学長になった。                 私は 一匹狼で、ずるい。責任ある立場より 気ままな道を進んだ。  今 こうして 中国に居る。
   写真は 連雲港。秦代、徐福は始皇帝を騙し、この港から旅立った。 
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by yamayamakawaumi | 2005-01-02 10:30 | その他

ついに 「虎さん」に!

  中国で 諸外国で、露天商を見ている私が 、「僕もやりたい!」と思うのは 自然の成り行きだ。中国でやる訳にはいかない。中国で法律違反を犯すわけにはいかないのだ。    2000年夏とその冬に チャンスはやって来た。準備だけは、その前から していた。売る物は、上海で仕入れてある。木彫工芸品・カラーによる水郷の水墨画(現代山水画)である。品物を並べる 敷き布も用意した。売れたら 紙袋に入れて 渡そう、と広告の紙で 袋を準備する。どんな場所で売れば良いか?それが 問題だ。北の繁華街も南の繁華街も、自転車で行くことができる。
 よし ここにしよう。似顔絵描きのおじさんの隣りに陣取った。彼も暇である。商品を目立つように並べるには、こうしたらどうだ。などと アドバイスしてくれる。一人で店を出しているより、二人のほうが 客は 立ち止まるのだ、と言う。以来、あちらこちらで 店を広げた。ビジネス街のお昼時、弁当屋の横、さる沢の池付近、神社の縁日。古道具屋さんたちは、車に品物を乗せて、日本中 商売して回っている。不景気を実感しているとの事だ。
 私の商品を買ってくれた人の中に なぜか 韓国人が多かった。仏教に対する気持ちの表れだ と思っている。
   写真は 北京ー杭州大運河。常州。10数隻を引っぱる。通航量はとても多い。  
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by yamayamakawaumi | 2005-01-01 14:14 | その他